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名古屋地方裁判所 平成2年(わ)674号 判決 1991年1月18日

主文

被告人は無罪。

理由

第一  公訴事実及び争点

起訴状記載の本件公訴事実は、「被告人は、自動車の運転業務に従事するものであるが、昭和六三年一二月一日午後三時四〇分ころ、愛知県小牧市大字桜井七五四番地付近道路において、普通貨物自動車を運転し、駐車場から歩道を横断して車道に進出し右折するに際し、一時停止又は徐行して歩道左右の交通の安全を確認すべき注意義務を怠り、一時停止したが、右方の安全を確認しないで時速約三ないし四キロメートルで歩道を横断して車道に進出しようとした過失により、自車右前部を歩道右方から左方に歩行してきたA(当時四六歳)に衝突させ、同人に加療約二週間を要する左側腹部打撲等の傷害を負わせた」というものである。なお、差戻し前第一審における検察官の冒頭陳述に照らすと、右一時停止地点は、前記駐車場と歩道との境界線のすぐ北側の地点(右駐車場内の地点)であり、本件公訴事実における被告人の過失は、右一時停止地点から歩道に進出しようとして普通貨物自動車(以下「被告人車両」という。)を発進させる際、右一時停止地点で歩道内を右方(西)から自車の前方に歩行してくる歩行者の存否を確認しなかったことと解される。

これに対し、弁護人は、被告人は右一時停止地点で前記Aが左方から右方へ通り過ぎたのを確認しているから、発進前の注意義務は尽くしており、むしろ被告人車両が発進後再度停止していたところ又はその後徐行していたところにAの方から衝突してきた疑いが強いこと、Aの傷害を裏付けるものは同人の自訴のみであり信用できないことを理由に無罪を主張し、被告人も差戻し前の第一審以来これに副う供述をしている。

第二  被告人の過失について

一  被告人の当公判廷における供述、差戻し前第一審の公判調書中の被告人(第六回)、証人A(第二回)及び証人B(第三回)の各供述部分、差戻し前第一審の検証調書、被告人の司法警察員に対する供述調書、司法警察員作成の昭和六三年一二月一二日付実況見分調書、司法警察員作成の写真撮影報告書等によれば、以下の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

1  本件現場道路は東西に通じ、車道は幅員約六・六メートル、片側一車線で、北側に幅員約二・二メートルの歩道があり、北側歩道に接して駐車場がある。そして、被告人は、本件公訴事実の日時に、被告人車両(トヨタハイエース、車体の長さ四・六九メートル)を運転して右駐車場から歩道を横断して車道へ出て右折しようとしたが、その際次の経過で、被告人車両と歩道を右方(西)から歩いてきたA(当時四六歳)とが歩道上で衝突した。

2  右衝突前、被告人は、まず、駐車場と歩道との境界線のすぐ北側の地点(駐車場内の地点)で一時停止した。そのころAは、被告人車両の停止位置から二、三メートル東側の歩道上に自己の車を止めて降車し、その後、一時停止中の被告人車両の前を通って、歩道上を左方から右方(西)へ歩いていった。

3  被告人は、一時停止後左右の歩車道の様子を観察した。歩道については、Aが前記のとおり自車の前を通り過ぎたのを確認し、右方から歩道上を走ってきた自転車が通り過ぎるのを待ち、また、Aが右方三、四メートル先にいたのを認めている。

4  被告人は、Aが右方三、四メートル先にいたのを認めた後間もなく緩やかに発進したが、Aもそのころ自己の車に戻ろうとして、右後方を振り返りながら歩道上を東方の被告人車両の方へ戻り始め、被告人車両に注意を払わずに引き返してきて、振り返った姿勢のまま被告人車両の右側面ドア前部に衝突した。衝突地点は歩道の中心からやや車道寄りで、被告人車両は衝突までに前記一時停止地点から約二メートル前進している。なお、被告人は、衝突後Aから衝突を知らされるまで、同人が接近してきたことを知らなかった。

二  そこで、被告人の過失について検討する。

検察官は、歩道は原則的に自動車の進入を予定していない場所であるから、歩道を横断することになる自動車運転者としては歩行者のいかなる動静にも対処しうるように慎重に安全確認をすべき注意義務があるとして、本件においては、概ね右認定と同様の事実を前提にしつつ、被告人車両の目前を通過したAに対しても、その後の安全確認は必要であり、特に被告人はAが自車の前を通り過ぎた後三メートルくらい先で立ち止まったのを認めたのだから、同人が引き返してくることは予見可能であった旨主張する。確かに、自動車運転者は歩道上の歩行者に対して相当高度の安全確認義務を負うべきであろう。また、Aが被告人車両の目前を通過したからといって、同人がひき返してくること自体が予見不可能であったとはいえない。

ところが、本件においてAは、引き返して被告人車両に衝突するまで、右後方を振り返ったまま歩いている。仮に同人が戻り始めたのが被告人車両の発進よりも時間的に前であったとしても、同人が戻り始めた地点は被告人車両の右方三、四メートルであり、一方被告人はAが右地点にいるのを認めてまもなく、緩やかに自車を発進させて歩道上に進出しているのであるから、同人が普通に前を向いて歩いてくれば衝突はしなかったはずであり、このことは、Aが被告人車両の側面に衝突していることからも裏付けられる。そして、一般的には、自動車を運転して道路外から道路に出る際に、歩道上の歩行者が前を向いて歩いてくれることを信頼することは許されないとしても、本件のように、自動車が歩道直前でエンジンをかけながら車道に向かって停止しているその目前を通過した歩行者との関係では、これを認める余地がある。

すなわち、そのような歩行者は酩酊者や幼児その他注意力の乏しい者でない限り、通常は自動車が車道に出ようとしている様子に気がつくであろうし、気がつけば当然、引き返す際にも右自動車の動静に注意して行動するであろうと考えられる。しかも、いったん通過した歩行者が引き返してくること自体、予見不可能ではないにしても稀であるから、本件におけるAのように、一般の成人の歩行者が前記のような態勢にある自動車の目前を通過した後、ほどなくして後向きのまま、右自動車の動静に何らの注意を払わずに引き返してくることは極めて稀な事態であるといえる。運転者が通過後の歩行者が引き返してくるかどうかを確認することは望ましいことではあるが、運転者に対し、常に右のような稀な事態をも予想し計算に入れた上で引き返してくるかどうか確認することを求めるのはあまりにも酷であり、実際上も道路外から道路に出ることは極めて困難にならざるをえない。この場合には、たとえ歩道上であっても、引き返すという例外的な行動に出る歩行者に対し、事故回避のための一定の注意が求められてしかるべきである。

したがって、右の場合の自動車運転者としては、歩行者の通過後も長い間停止していたという事情(その間に停止中の自動車に対する歩行者の注意が薄らいだり、歩行者が前を向いて歩いていても衝突を避けられないほど近くに接近している可能性がある。)等がないかぎり、歩行者の側で自車の動静に注意を払ってくれることを信頼して運転することが許されると解すべきであり、結局、通過した歩行者が引き返してこないことまでを確認する注意義務はないというべきである。

本件においては、前記のような被告人車両の停止状況、成人であるAがその目前を歩いて通過していったこと、被告人は、通過したAが右方三、四メートルという前を向いて歩いてくる限り衝突を回避できるであろう距離にいたのを確認し、その後間もなく自車を発進させたこと等に照らすと、右確認後発進前にさらに同人が引き返してくるかどうかを確認すべき注意義務があったと認めることはできない。そして、被告人は、このほかの点では、前記一3のとおり、一時停止後発進前に歩道上の歩行者等の有無を観察して、発進にあたって必要な安全確認の注意義務は尽くしており、被告人には、本件公訴事実における過失は認められない。

第三  よって、本件においては犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法三三六条により、無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大山貞雄 裁判官 半田靖史 山崎秀尚)

<以下省略>

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